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『孫子の兵法』(1)

孫子曰く
「私」の兵法を豊かに開発し続けよ

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参考書籍紹介

  • 『新訂 孫子』金谷治訳(岩波文庫)
  • 『魏武注孫子』曹操/渡邉義浩訳(講談社学術文庫)
  • 『孫子の兵法』ライオネル・ジャイルズ/関岡孝平訳(パンローリング株式会社)
  • 『真説 孫子』デレク・ユアン/奥山真司訳(中央公論新社)
  • 『米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ』マイケル・I・ハンデル/杉之尾宜生,西田陽一訳(日経ビジネス人文庫)

1. 孫子とは

『孫子』の作者は、春秋時代に呉王の闔廬(紀元前514〜紀元前497年在位)に仕えた孫武だとされています。が司馬遷の『史記』には物語調の説話はともかく、孫武に関する事実らしい話はさらっとしか書かれておらず、また途中で孫臏(紀元前430年頃)が出てきて混乱しました。

1972年、山東省臨沂県 銀雀山漢墓から発掘された竹簡資料が示すところによると、この二人は別人で、我々が『孫子の兵法』と言っているものが、実在した孫武のものである(孫武自身が書いたかどうかは不明。他と混ざっている可能も)ということで、ひとまず決着がついているようです。

※ここでは「孫武」を「孫子」で統一します。

それで、その中身なのですが、前漢(紀元前206〜8年)の歴史書、『漢書』の一部、「芸文志」を記した任宏の時代には、既に82篇まで膨れ上がっており、主に陰陽学派や技巧学派の議論が加えられていて(※後述します)あきらかに孫子よりも低質で主線からの逸脱が多かったため、魏の武帝・曹操(155年~220年)が、バッサリ切って編纂した、ということになっています。

我々が見ているテクストは、この曹操が編纂した『魏武注孫子』が底本になっているらしい。そして通常『魏武注孫子』と併せ、たとえば『宋本十一家注孫子』『武経七書』『古文孫子』『群書治要』『通典』『北堂書鈔』『太平御覧』『武経総要』『淮南子』等々、参照先が山ほどありまして、『銀雀山漢墓の竹簡』も含めるならば、どの程度含めるのかによっても注釈の捉え方が変わり、孫子の言わんとする言葉の意味も変わってきます。

したがって『孫子の兵法』は「決定版がないテクストだ」と言えるでしょう。

2. 孫子の背景

(1)孫子が生まれた斉国(紀元前1046年〜紀元前221年)の影響と(2)孫子自身の時代的風潮、この2つを理解すると『孫子の兵法』を概ね把握できます。

2-1 斉国の文化

ベースになっていると思われるのは、

  • (A)東夷文化ーー 斉国成立地域に以前から存在していた地域の文化
  • (B)炎帝文化ーー 太公の祖先と信じられている
  • (C)殷王朝文化ーー 中国全般に影響を与えた
  • (D)周王朝文化ーー 以前斉国が属国だった

見て分かるように、複雑系です。

加えて、斉の建国者・太公が凄い人で、当時は農業を基盤に考えられていたけれども、地理的な傾向から、国力を高めるため商工業に力を入れました。その結果、一説によると、斉人の「7特徴」が形成されたと言われています。

  • (1)実践主義
  • (2)柔軟性
  • (3)開放性
  • (4)非排他性
  • (5)公正
  • (6)礼儀正しさ
  • (7)謀報

ここで勘のいい人は「まさに孫子じゃないか!」ってなると思うんですけど、念のため、斉人の特徴について補足すると、

国を守るにしても他国を攻めるにしても、国力を高めて、莫大なコストを要する戦争に備えなければいけないので「どんどん儲けろ!」ということです。すると保護政策とか何とかギチギチにやっていられないので、市場を開放しないといけないでしょう。だから(3)開放性(4)非排他性は納得だし、当然、そうなると、生きるため(1)実践主義にならざるをえないし、言葉が悪いですけどそこでは有象無象が行き交うわけだから、商売の原理原則に基づき(5)公正(6)礼儀正しさはあっても、やはり(7)謀報は外せないでしょう。ちなみに(7)謀報を「詐欺的な性格」と表現する人もいるし、『史記』によれば「機転が利いて理屈っぽかった」とのことです。

※孫子はズル賢く詭道を使うから嫌いだ、という人をたまに見かけますけど、後述します、少々お待ちを。

そうとう人馴れというか、こなれている感じがします。塩害があって、農業が難しかったみたいですけど「農業じゃなかった」というところが、こなれ感を醸成したのかもしれません。

※田畑は理に基づき収穫結果を得られますが、相手が人間であれば、そうはいきません。こちらの常識や道徳が必ずしも通用するとは限らないので、相手に合わせて、やり方を変えていくだけの柔軟性が、現実的に求められるでしょう。

2-2 孫子自身の時代的風潮

これに併せ「4学派・分業・戦い方の変化・老子・陰陽」も加えることができます。

4学派

任宏の兵法書に寄せて

  • (A)権謀学派 政治を含めた総合戦略
  • (B)形勢学派 作戦と戦術
  • (C)陰陽学派 素朴な気象学や地理学/霊魂や畏怖の念など民族的な精神性
  • (D)技巧学派 軍事テクニックや技術

という4つの学派で見た場合、孫子は(A)グループに入りますが、『孫子の兵法』で展開しているように、計篇・作戦篇・謀攻篇・形篇・勢篇・虚実篇・軍争篇・九変篇・行軍篇・地形篇・九地篇・火攻篇・用間篇、(B)(C)(D)は、(A)権謀学派として、統合しています。これは後で、西洋との比較でもう1回出しますけど、(B)(C)(D)を含めながらも(A)権謀学派に、主軸が置かれているため『孫子の兵法』は最初から「上位の戦略レベル」で兵法を見据えていることが分かります。

分業

春秋時代初期は、政府高官と将軍との間に、明確な線引きがなかったようです。孫子は、政治家ではなく将軍寄りなんですけど、この線引きが、まだ曖昧な環境が、クラウゼヴィッツと発想が異なる理由の1つです。

※孫子とともに東西を代表する軍事古典の、もう一人、クラウゼヴィッツ(1780〜1831)はプロイセンの陸軍軍人で軍事学者。『戦争論』で有名。

戦い方の変化

太公の時代でも「戦いは軍令に即して行われるべき」と考えられていた、らしい。これは多くの翻訳者が引いていますけど、有名な「宋襄の仁」襄公が、楚軍と戦うとき「君子は準備の整わない相手を攻撃しない」と言って、士官の勧めを却下し、結果、襄公自身も負傷し大敗したという話です。がこの時代には正しい軍令の1つであり、これが一般的な行動規範でした。

※なので襄公を批判するのはどうかと汗。
※他に軍令として『司馬法』には、敗走する敵を百歩以上追撃しないとか、戦闘不能になった敵にはトドメを刺さないとか、敵が陣列を整えてから進撃の太鼓を鳴らすとか、こういった軍令が共有されていました。

『孫子十家註』編者の一人、南宋の鄭友賢は、『司馬法』は「仁・義」であるのに対し『孫子の兵法』は「詐・利」であり、『司馬法』は「戦争を最後の手段」として捉えていたのに対して『孫子の兵法』は「軍事作戦における分散と統合」であると言っています。

※『司馬法』は著者が司馬穰苴とされていて、孫子と同様、斉の将軍です。中国の春秋時代は諸子百家が出たのもこの時代ですし、軍事も文化もめまぐるしく変化した時代です。

諸国が入り乱れ、戦場が拡大して武器が進化・多様化し、兵士の質が変化して頭数も増えていけば『司馬法』がうたうような「仁・義」では、とても戦いきれないでしょう。国家の命運をかけ兵士たちは命をかけて(将軍にとっては命を預かって)戦うのだから。時代が変わっても、この傾向は強まることはあっても弱まることはないでしょう。それは現在に至るまで。事が複雑になるほど、複雑な斉国で生まれ育つ孫子のような『孫子の兵法』が紐解かれる、というわけです。実際、こちらが人気を博しました。『孫子の兵法』は決定版がないテクストだと言いましたけど、ものすごい数の面々が、その後、注釈を試みています。それくらい熱心に読み込まれたテクストです。

老子

老子の道(タオ)や水、一見すると、孫子と似ています。そこに何かしらのつながりがあるとすれば、老子と孫子どのタイミングで、どちらがどのように影響し合ったのかは不明です。諸子百家が花咲く時代背景なので、書かれたものでなく、人物の老子と孫子(またはその一派ら)が、どこかで接点があったのかなかったのか。

しかしながら「そこだけ切り取ってみれば似ている」というだけです。なので世に広く知られているような「孫子は老子の影響を受け、タオの思想が云々」と、少し注意した方が良さそうです。というのも、そもそも論なんですけど、孫子は「詭道」の文脈で、道(タオ)とか水とか言っているわけで。いかに敵をコントロールし、低コストで優位に戦うかという意味で考えています。使っている言葉が似ている、もしくは同じであっても、老子の主張とする本線からすれば、実質、孫子とは、真逆です。それでも世の主張に、精一杯、寄せて考えれば「孫子はアイデアとして使った」ぐらいの意味になるでしょう(もしも孫子が老子よりも後発ならば)。

  • 孫子は道家ではない
  • 「老子の影響を受けた」までは言えない
  • 主張の本線からして老子と孫子は全てが真逆

老子と孫子の違い

老子は答えが先に用意されています。老子と実践者が重なることが前提。つまり、お手本が先にあるわけです。そのお手本に実践者は(老子と重なるように)近づけて行かなくてはいけない。言い換えれば、老子に近づけて行くだけでよいのです。イメージとしては、仏陀を拝聴するのと似ています。

一方、孫子は答えが書かれていません。実践者は孫子を参考に、自ら答えを導き出す前提になっています。孫子でなく実践者が答えを出さなければいけない。たとえば、どの国と戦争するのか、いつやるのか、敵将はだれなのか、兵力はどのぐらいで、どのような武器使用を予定し、部隊編成の数と配置場所はどうなっているのか、季節や当日天気の状態はどうなのか等々、そのまま(受け身の姿勢)であるならば、全てが不確実な状況で、もうそれは数限りない組み合わせパターンになり、自分自身だけでなく、まさに目の前で、伴う兵士らがバタバタと絶命する厳しい現実の中で、孫子に近づけ重なろうとしても、実戦部隊では無理でしょう。その時々の組み合わせパターンに応じて、柔軟に変化させ、都度、最適解を実践者自らが見極め編み出さなければならないというのが、リアルな話。

この後、仔細に見て行きますけど『孫子の兵法』を、ざっくり分類すると「君主に対しての孫子PR・定石・ヒント」この3つで構成されています。そのまま使えるものは1つもないです。孫子の言葉を上からなぞるように、そのまま解釈(あるいは批判)したら大変なことになります。孫子は受け身で解釈/解決できる「単純なマニュアルではない」ということを実感します。

陰陽

先の4学派で紹介した(C)陰陽学派の「陰陽」の取扱いは、孫子の時代には、ただの習慣だったらしい。例「天とは、陰陽や気温、時節などの自然界のめぐりのことである(計篇一)」そして年月を経て現在のような哲学的な意味へと変遷したもよう。しかし「1つの全体として見る」陰陽は(その言葉を使わなくても)どうやら思想の根底にあるようで、奇と正、虚と実、強と弱、遅と速というような対義語を、孫子は意識的に多用しています。

言い換えれば、孫子は「1つの全体として見る(把握する)」というフォーマットを、陰陽の枠組みで表現しています。だから奇と正、虚と実というような、反対の言葉が出てきたら「1つの全体として見たい(把握したい)のだな」ということが察せられます。

「是(こ)の故に、智者の慮は必ず利害に雑(まじ)う。利に雑りて而(すなわ)ち務めは信(まこと)なるべきなり。害に雑りて而ち患(うれ)いは解くべきなり。(九変篇四)」

智者の考えというものは、一つのことを考えるのに、必ず利と害とをまじえ合わせて考える。利益のある事にはその害になる面も合わせて考えるから、仕事はきっと成功するし、害のある事にはその利点も合わせて考えるから、心配ごとも解消する(それでこそ九変の利益にも通ずることができるのである)。

一例です。ここでは「利」と「害」を対比させています。

西洋的な考え方だと「害」をいかに取り除くかという命題を立てますけど、その手つきは概ね外科手術のごとくです。たとえばGAFAの解雇ニュースなど度々見かけますが、考え方が外科手術なので「不要」となれば、バッサリ切り落とします。しかし陰陽の考え方では「利」と「害」を「1つの全体として見る」わけで、西洋的に「害」を「害」として「排除すべきもの」と単純に考えるのではなく、循環する輪の一方が「害」で、もう一方が「利」であるという考え方です。だから「利」が「害」になったり、「害」が「利」になったりするわけですよ。先のGAFAの例で言えば、帳簿上、人件費をカットしているだけであって(その時の帳簿上の)「害」を「害」として単純に処理しているだけ、つまり帳簿上の、帳尻だけを合わせている状態です。人間は感情の生き物なので企業イメージが悪くなりますよね?その一方では、イメージアップの広告宣伝や、人材育成に多くの資金を投入しています。確かに目先では帳尻合わせができているのですが、全体で見ると、全く合理的ではないです。陰陽の考え方では、1つの全体として見るので「問題の本質はどこにあるのか?」これを全体から推しはかり(常に循環しているという認識のもと)その問題の本質に、メスを入れます。

ちょっと分かりにくいかもしれないけれども、我々日本人はまだしもです。中国とは同じ東アジア圏で、聖徳太子の昔々から文化の共有があるため、それでも感覚的に分かるところでもあるでしょう。ところが西洋は、本当に異文化なので、孫子に対する解釈を見ると、うーん、となるところが多々あります。それは研究者層の解釈だけでなく。今日的な時事報に関しては、ここでは具体的に言及しませんが、戦争や紛争に関して、一見すると「戦わずして勝つ」または「低コストで敵を破る」など、うまくやってのけたように見えて、実は偽装した外科手術です。「害」を「害」として取扱いながら、ただミサイルを大がかりに撃ち込んでいないだけ、ターゲットを絞り込んで低コストに粛清しただけ、という、これは孫子の言わんとするところではないです。いま孫子が生きていたら、激オコに違いありません。

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